遠くからやってきた波に乗るということ

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   遠くからやってきた波に乗るということ

                           水城ゆう

 向かい風でびゅんびゅん飛んでくる砂粒《すなつぶ》を頰に感じながら、浜を横切り波打際《なみうちぎわ》に降りていくと、白く泡立った波が最後まで白いまま足元に打ち寄せる。
 リーフブーツに染みこんだ海水が今日の水温の低さを伝えてくる。
 半分白くなった髪が強風にあおられる。もう砂粒は飛んでこないかわりに、冷たい飛沫が唇に塩気《しおけ》を運んでくる。
 風と、いったん高くそびえ立った波がくだけて海面をうつ音が、耳を聾《ろう》さんばかりだ。かまわずざぶざぶと、サーフボードを水にさらわれないように高くかかえあげながら、沖へと進んでいく。
 浜には人っこひとりいない。
 日はすでにのぼっているが、雲にさえぎられている。雲は速い動きで全天をおおったまま沖から陸の方角へと流れている。
 ウェットスーツのすきまにはいりこんでくる海水は、ちぢみあがりそうに冷たい。が、それも一瞬のことだとわかっている。体温が水をあたため、そこにとどまり、身体をつつむ。
 海面の位置が腰のあたりまで来たとき、彼はサーフボードを水面に寝かせ、その上に上半身を乗せた。沖に向かって両手でパドリングをはじめる。

 校庭の水飲み場で手を洗っていると、クラスメートのありすがやってきた。
 横にならんで、蛇口をひねり、手を洗いはじめる。
「あやちゃん、もう帰り?」
 手を洗わなきゃならないことなんてなにもしてないはずだけどな、ありすは、と思いながら、あやかはうなずく。
「うん」
「昨日、風間くんに告《こく》られたんだって?」
 唐突に聞かれる。だれから聞いたんだろう、まさか風間くん、みんなに宣伝してまわってるわけじゃないよね。
 逃げられないと思ったので、正直に答える。
「うん」
「付き合うの?」
 ありすも風間くんのことが好きなんだろうか。蛇口を閉めながら彼女を横目で見てみる。ありすは前を向いたまま、流れおちる水に両手を突っこんでいる。
 なるほど、好きなんだな。
「付き合わないよ。興味ないもん」
「風間くんに?」
「男に」
「やっぱ慶応めざしてんの?」
「なんで?」
「だって、あやちゃんち、パパもお兄さんも慶応でしょ?」
 人んちの事情、よく知ってるなー。でも、わかんないよ、進学のことなんて、まだ。進学どころか、いまこの瞬間だって自分がどうしたいのかわからないというのに。
「落ちこぼれのわたしが慶応なんか無理むり」
「またご冗談を」
「じゃ、お先に。また明日ね。ばいばい」
 ついでにいうなら、おじいちゃんも慶応だ。

 波高は三メートル弱というところか。風が強いわりには波はちいさい。しかも海風だ。
 日本海側に低気圧が通過中で、南風はまだしばらくつづくだろうから、午後から明日にかけてもうすこし波は高くなるかもしれない。
 明日も来るか? 今日は体力を温存して、あがるか。
 彼はひとり、苦笑する。まだ一本も乗っていないのに、もう帰る算段か。
 ひとつ、ふたつ、みっつと波をやりすごし、沖へ、沖へと出る。
 沖に向かって右側、湾の西側に、嘴《くちばし》のように張り出した岬があり、そこから目には見えないけれど海中に長く張り出した砂州《さす》がある。沖からやってきた波はそこで大きく持ちあげられる。うまくつかまえれば、浜の浅瀬にぶつかって崩れるところまで持ってこれる。
 今日は海風で乗りにくいが、何本かはうまくつかまえられそうだ。
 パドリングでポイントまで来ると、ボードにまたがって、いったん息をととのえる。
 還暦をすぎたら、あらたにチャレンジするスポーツはサーフィンと決めていた。いまさらぬるいスポーツはごめんだ。おとろえゆく身体こそ使いきってみたい。若いころ、マリンスポーツはいくつか経験があった。とくにヨットは学生時代に小型のディンギーをかなりやりこんだ。レースにも何度も出た。ウインドサーフィンもすこしだけ経験があった。が、サーフィンは機会にめぐまれなかった。いまこそそのときだと、還暦をむかえた年の秋、浜から海水浴客の姿がなくなるころを見計らって、サーフショップをたずねた。
 最初はレンタルで、そして孫のような年頃のコーチについて、基礎を教わった。いまはウェアもボードも自前で、そしてひとりで通っている。それが気にいっている。
 よさそうな海水の盛り上がりがゆっくりとこちらに近づいてくるのを確認して、彼はボードの上に身体を横にすると、波に背をむけてパドリングをはじめる。

 帰宅するとパパがエプロンをつけて夕飯の支度《したく》をしている。めずらしい光景じゃない。いうとびっくりする人がいるけれど、あやかにとっては小学生のころから見慣れている。
 ママが死んだのは小学二年の冬。
「今日はなに?」
 聞くと、ぶっきらぼうに返ってくる。
「さよりの天ぷら。豪華具沢山のミソスープもあるぞ。食うだろ?」
「にいちゃんは?」
「五時半もどり。だから、仕上がり予定もそのへん」
「置いといて。ちょっと遅くなるかも」
「出かけるのか?」
「気分転換」
「いつもの、な。また煮詰まったか」
「休みなの?」
「早退。風邪気味かもって嘘ついて帰ってきた」
 小学生ですか、とあやかは思う。そして、見抜かれてるな、とも思う。たしかに煮詰まってる。
 制服から着替えると、出かける支度をする。
「行ってくるね。帰りはたぶん六時すぎ」
 どこへ、とは聞かれない。しかし、
「今日は海風だぞ」
 背中にいわれてまた、見抜かれてる、と思う。

 四本めくらいだったか、いい感じに乗れた。足裏――といってもリーフブーツの底だが――がぴたっとボードに吸いつき、腰が低く安定する。右の肘と右の膝、左の肘と左の膝が、まるでゴムバンドでつながっているように連動する。ほんのわずかな体重移動でサーフボードが大きく弧を描いて転換する。最後は波頭を突っ切って、ボードごと自分を空中に放りだす。
 宙を舞いながら頰に波しぶきを受け、雲間からのぞいた日の光を目撃し、迫りくる泡だった海面に手をのばす。
 着水の瞬間、砂浜に人影があるような気がしたが、そんなことはもうどうでもいい。水面に顔をだし、ボードを抱えこむと、ふたたび沖にむかって漕ぎ出す。
 波に乗りたいというより、そのまま水平線の向こうまで、命のかぎり漕ぎ続けたい衝動にかられる。

 だれかに会うといろいろ聞かれそうなのが嫌なので、直接ボードロッカーに向かった。水着にはもう家で着替えてある。
 ひとけはなく、サーフボードを引っ張りだしてもだれからも声をかけられなかった。そりゃそうだろう、シーズンにはほど遠いまだ冬といってもいい時期の、午後の遅い時間。だれが波乗りに来るというのだ。
 ところが、浜に出てくると、沖に人影があった。
 ひとめでわかった。
 おじいちゃん。
 力強いストロークで、沖に向かっている。
 そうそう、そっちにいいポイントがあるよね。知ってるよ。
 ところがポイントをすぎても、彼はいっこうにパドリングをやめようとしない。どんどん沖へと向かっていく。
 あやかは小走りに海にはいると、ボードに身体を投げ出すようにして、彼のあとを追う。
 学校? 進学?
 どうだっていい。
 おじいちゃん、あんなに遠くに漕ぎ出してる。
 追いつこう。

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