特別なことをやっているつもりはないが、現代朗読は

このところ体験講座や個人セッションなどでやってきた何人かから立て続けに、
「朗読ってむずかしい」
という固定観念を持ってしまっているという話を聞いた。
なぜむずかしいという思いこみを持ってしまったのか、よく聞いてみると、
「こう読まなければならない、こう読んではいけない、アクセント、滑舌、日本語の正しい発音などおぼえなきゃならないことが多い」
といった理由で、むずかしいと思いこんでいるようだった。

その方たちは養成所や朗読教室で朗読を習ったことがあるのだが、なにか読むたびに、
「そうではなくて、こう」
「それはだめ」
「こう読まねば」
といった指導をこまかく受けて、朗読はむずかしくて面倒なものだ、という印象を持ってしまったという。
なかには朗読をしようとすると緊張のあまり身体がこわばってしまう、という人までいた。
悲しいことだ。

現代朗読においては、「こうしなければならない」とか「こうしてはならない」というものは一切ない。
自分のやりたいようにやることが求められる。

これはしかし、好き放題やることとは違う。
自分がどうしたがっているのか、自分の身体がどう動きたがっているのか、いまこの瞬間自分はどのように読みたがっているのか、身体の声に耳をすまし、自分自身の深い部分から出てくるものにたいして誠実に、正直に、そして緻密に反応していく。
これはそう簡単なことではない。
しかし、むずかしい、という言葉とはちがう。
私たちは普段、たえず自分自身の身体の声を聞いているのだが、無意識にそれを押さえつけ、ねじまげる癖を身につけてしまっている。
そのことに気がつき、ただやめるだけだ。
自分自身を疎外している意図的な企みを捨てる。

そのように自分に正直になっていけたとき、そこには大きな自由と喜びがある。
朗読ってこんなに楽しい! と気づいてとたんに活気づいてくる。
こういうことは朗読にかぎらず、人の生きることのすべての基本であり、特別なことではないと私は思っているのだが、ちがうだろうか。
現代朗読以外の、従来の朗読のほうが、よほど特殊なことを強いているような気がしてならない。

現代朗読を気軽に体験できる体験講座の次回開催は10月5日(土)午後。
詳細と申し込みはこちら

読むとき噛んでしまうことについて(2)

以下、「噛まない名人」の野々宮卯妙(たまには噛むけど)に確認しながら、噛まないための訓練についてまとめてみた。

「噛む」あるいは「読み間違える」ということが起こるとき、たいてい読み手は文章や言葉の「意味」にとらわれ、思いこみをしている。
「走ってる」と書かれているのに「走っている」と書いてあると思いこんでいて、その読もうとして、読む瞬間に読みまちがいに気づくのだが、訂正が間に合わず、噛んでしまう、というようなことが起こる。
あるいは間違っていることにすら気づかず、思いこみのまま読みすすめてしまう、ということもある。

人は「意味の動物」なので、文字面だけを正確に読みとろうとしても、意味にとらわれてまちがえてしまう。
読み間違えない訓練方法としては、意味にとらわれず文字面を正確に読みとる練習をすればいい。

野々宮がやっているのは、文章を逆から読む、というものだ。
「我が輩は猫である」を逆から読むと「るあで猫は輩が我」となる。
まったく意味をなさなくなる。
意味をなさない文章を、それでも正確に読みあげる練習をする。
意味ではなく、文字記号としての注意深さを養うのだ。

噛んだり読み間違えたりするのは、結局のところ集中力に欠如や不注意から起こる。
意味にとらわれてこう書かれているはずだ、と注意をおこたって読んでしまうのは、ようするに自分が読むという行為に効率を持ちこみ、楽をしようとしているからだ。
私たちは資本主義社会・効率主義社会で教育を受け、育ち、生活しているために、骨の髄までものごとを効率よく処理して自分は楽をしよう、という態度がしみついている。
そのことを朗読という表現行為に持ちこまないようにしたい。
表現が効率で支配されることほど貧しいことはない。
自分がなにをしようとしてしまっているのかに気づき、襟をただし、高度な集中と注意を向けて目の前のテキストに対峙する。
その姿勢を持つだけで、噛んだり読み間違えたりすることは格段に少なくなるだろう。

梅ヶ丘THE生エンタから沈黙の朗読へ

昨日は街の音楽祭〈梅ヶ丘THE生エンタ〉に出演してきた。
梅ヶ丘北口にあるレストラン〈GILLIA〉が会場。
去年オープンしたという新しい店で、私が梅丘に住んでいたころにはなかった。
こじんまりしたアットホームな店で、近いうちにイベントとは関係なしに行ってみよう。

午後2時すぎにげろきょメンバーと梅ヶ丘駅で待ち合わせて店に行くと、生エンタ主催者の真藤さんとスタッフの人たちが音響のセッティングをされていた。
かなり古いKORGの電子ピアノが持ちこまれている。
あまり弾き良いとはいえないが、自分で楽器をかつぎこまなくてすむのは助かる。

午後3時からファーストステージだが、お客さんが来ない。
ピアノを弾きながら朗読と遊んでいると、お客さんが来たので、そのまま野々宮とセッションをはじめる。
そしてそのままファーストステージ。

今回のセットリストはつぎのとおり。

1. 宮本菜穂子。夢野久作「田舎の事件」
2. 福豆々子。国木田独歩「武蔵野」から
3. 植森ケイ。吉田兼好「徒然草」から
4. 山田みぞれ。中谷宇吉郎「イグアノドン」
5. てんトコロ。中島敦「かめれおん日記」から
6. 野々宮卯妙。「日本国憲法」前文〜水城ゆう「鳥の歌」
7. 憲法九条〜全員参加「祈る人」

まあみんな自由すぎる(笑)。
私もびっくりするほど自由奔放だったり、しっとりだったり、深みがあったりと、お客さんが少なかったけれど、げろきょゼミ生の実力を存分に味わうことができた。
これからどのように深化していくのか、楽しみだ。

そして今日は「沈黙の朗読」の2本立て。
連休の最終日のせいか、これもまたお客さんが少ない。
赤字はやむをえないが、名古屋から昨夜上京している榊原忠美の「記憶が光速を超えるとき」と、野々宮卯妙とげろきょゼミ生による「特殊相対性の女」のどちらも、非常にスリリングな、現代朗読の、いや朗読表現の最高峰といえるパフォーマンスになること間違いないものを、多くの人にご覧いただけないのはちょっと残念。
ご都合のつく方はぜひ目撃しに来てください。
明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉にて午後3時からと午後6時から、それぞれの演目が上演される。
詳細はこちら

読むとき噛んでしまうことについて(1)

オーディオブックリーダー養成講座を受講中の方からつぎのような質問が来た。
「意識しすぎるからなのか、まだまだトレーニングが足りないからなのか、その両方なのか、いざ自分で本番と決めて通し読みをすると、どうしても最後まで一度も噛まずに読めたことがありません。今やっている司会の仕事の方も、絶対噛んじゃいけないと意識していればしている時ほど噛んでしまいます。こういうのは、やはり練習なのでしょうか? 実際緊張をすごくするというわけでもないのですが、なかなか上手くいきません。何か対処方があれば知りたいです」

まずいいたいのは、私たちは人間であってロボットではないのだから、かならず間違ったりミスをおかすことがある、ということだ。
朗読にしても司会にしても、「間違ったらどうしよう、噛まないようにしなきゃ」とかんがえながら行なうのと、「間違えることもあるよね、噛むこともあるかもね」と自分がミスすることを受容しながら行なうのとでは、どうちがうだろうか。

いうまでもなく、前者の身体には不要な緊張が生じている。
「噛まないようにしようとすればするほど噛んでしまう」
という現象はそのために起こる、いわば必然といっていい。
後者には不要な緊張はない。
結果的に噛みにくくなる。
自分にミスすることを許せば、ミスは少なくなるのだ。

私たちは「ミスをしないように気をつける」という教育を受けてきた。
それはすべての場面において無効だとはいわないが、そのマインドが人の能力を低下させることがある以上、その考え方を手放すことも必要だ。
「人はミスをするもの。自分もミスをする。そのことを受け入れ、ミスしたときにどのように対処すればいいのか準備しておく」
オーディオブック収録のときに間違えたら、とめてとりなおせばいいのだ。
司会のときも間違えたら、そのことをごまかさず、とりつくろわず、正直にふるまえばいい。
正直な人を相手にするとき、たいていの人は相手を受け入れるものだ。

もっとも、噛まない、読み違いをしないための技術訓練方法がないわけではない。
それについては項をあらためる。

現代音楽と現代朗読の怪しい夜@中野〈Sweet Rain〉のお知らせ

中野のジャズライブバー〈Sweet Rain〉で現代音楽の作曲家、演奏家たちと、現代朗読パフォーマー野々宮卯妙および水城ゆうが出会う、スリリングな企画ライブをおこないます。

◎日時 2013年10月16日(水)20:00スタート
◎場所 中野〈Sweet Rain〉
◎料金 2,500円(飲食代別)

 予約先:Sweet Rain(03-6454-0817)または現代朗読協会

◎コーディネート 中村和枝
◎出演
 野々宮卯妙(現代朗読)
 村田厚生(トロンボーンほか)
 石塚潤一(ピアノほか)
 木下正道(作曲ほか)
 水城ゆう(ピアノ、作曲、テキスト)

この企画は現代朗読と交流があった現代音楽のピアニスト・中村和枝さんを軸に、おたがいの接点でなにかおもしろいことができないか、ということで決まりました。
今回、残念ながら中村さんは演奏には参加されませんが(ご自身のコンサートを控えているため)、音楽と朗読のコンテンポラリーの世界が初めて交点を結ぶスリリングな内容となるでしょう。
ここからなにが生まれるのか、だれも聴いたことのない音の世界をご期待ください。

自分の音楽、音を楽しむ

現代朗読協会を主宰している私自身は朗読しないのだが、公演やライブのときには音楽演奏で共演することが多い。
たいていはピアノを弾いたりシンセサイザー/キーボードを弾いたりする。
ピアノがなかったり、大型楽器を持ちこめなかったり、電源がなかったりするときは、鍵盤ハーモニカを吹くこともある。
いずれにしても、即興演奏で朗読と共演する。

演奏家が朗読といっしょにやるというと、ほとんどの場合「伴奏」になってしまうものだが、私は伴奏はしない。
あくまで共演者として朗読者と対等に音でコミュニケートする。
したがって、本番になるまでなにが起こるか、どんな音になるのか、まったく予想できない。

朗読と共演したあと、お客さんから訊かれて「全部即興ですよ」と答えると驚かれることが多い。
しかし事実なのだ。
楽譜に書いてあるメロディはひとつもないし、用意されたフレーズもない。
朗読者の発する声、そのリズム、音色、ときには言葉、そして観客、ライブ空間、外部から侵入してくる音、私自身の身体のなかで起こっている事件、そういったことに反応し、その場で音ができていく。

私の音はほとんどコントロールされていない。
自分の身体が「こう行きたい」という道すじをしめし、私はただその上をたどっていくだけだ。
その散歩(ときには駆け足であったり疾走であったりもする)はこの上なく楽しく、生きていることそのものであり、私がたどっている音の道すじは私の生命の発露そのものであるといっていい。

通常、音楽を学ぶ/練習するというと、ある一定の型をなぞり、繰り返し繰り返しそれを練習し、型とおりの音が出せるように反復訓練することを指す。
その方法はすでに19世紀以前のものであり、現代における音楽演奏の習得にはまったく別の方法があると私はかんがえている。
それは自分の音をさがし、自分のスタイルで演奏し、自分の生命力そのものを発露するための表現を鍛える方法だ。
従来の音楽教室や個人レッスンでおこなっている習得方法では、自分らしい、自由で豊かな生命力に満ちた演奏を身につけることはできない。

明日22日(日)は「梅ヶ丘THE生エンタ」で、明後日23日(月/秋分の日)は「沈黙の朗読」2本立て公演で、それぞれ朗読と共演することになっている。
自分のなかからどんな音が出てくるのか、共演者たちとどんな音空間を作れるのか、観客とどのようなものを共有できるのか、たぶん生まれるであろう豊かな空間と時間の体験を想像して、いまから楽しみでしかたがない。

全身が読むことに恊働したとき朗読表現は飛躍する

人が生きて表現することのクオリティを保証するものはなんだろう。
たとえば私たちだれもがやっている「歩く」という行為。

私たちはぶらぶら歩いたり、あるいはどこかに行くために急いで歩いたりするとき、その全身運動にたいしてほとんど意識していない。
なにかかんがえごとをしていたり、スマホをいじっていたり、きょろきょろしていたり、その間、自分の身体があることをすっかり忘れている。

それでもちゃんと歩けるのだから、身体はえらい。
運動機能をつかさどっている小脳や神経組織が、複雑なコントロールと情報収集、情報交換をすばやく、超並行処理でおこなってくれているおかげだ。
大脳はほとんどそのことを意識せずにほかのことをしていられる。
しかし、いったん「歩く」ということを意識したとき、人はどうなるだろうか。

よほど訓練された人でなければ、歩くことを意識し、意識的に歩こうとした瞬間、とたんにぎくしゃくと不自然な動きになるだろう。
たとえばあなたが大勢の観客のいるステージの上にあがって、ステージの端から端まで歩いてみせる、ということを想像してみたらいい。
ほとんどどうやって歩いていいかわからないくらい、ぎこちない運動になるだろう。
しかし、役者やダンサーやステージ慣れしている人は、ふだんのように、あるいは「歩くことを見せるための表現のクオリティとして」歩くことができる。
これはどうやっているのだろう。

いうまでもなく、歩くという運動にたいしてすみずみまで意識が行きとどき、自分がなにをどうやっているのかきちんと体認できているから、そうできるのだ。
しかし、それをコントロールしようという大脳皮質の傲慢さを許さないほうがいい。
それについては長くなるのでここでは書かないが、とにかく自分の身体がおこなっていることをただ見る、知る、意識する、任せる、邪魔しない、ということができるかどうかが問題だ。

朗読もそうだ。
朗読という表現行為はことばを発する。
口まわりや口中の筋肉・神経を精妙に使い、複雑な発音をしている。
どうじに声帯をふるわせ、呼吸を使い、姿勢も変化している。
そのような複雑で精妙な「運動」について、朗読者がどこまで体認できているか。
さらにいえば、読むという朗読行為に全身くまなく協力して参加し、最高のクオリティを発揮することにたいして、自分自身が邪魔をし損なっていないか。

自分の全体を緻密に体認し、声を発する、ものを読むという行為に全身を恊働させられるかどうか。
ここへの意識と方法を練っていくことで、朗読表現のクオリティは飛躍的に高まっていくことがわかっている。
この方法を伝える現代朗読の体験講座が、明日9月21日(土)14時から開催される。
興味があるかたはこちらからどうぞ。

もうすぐ音楽祭「梅ヶ丘THE生エンタ」

ライブ・公演がつづいている。
次の日曜日は「梅ヶ丘THE生エンタ」、翌月曜日は「沈黙の朗読」の二本立て。

「梅ヶ丘THE生エンタ」は去年も出演した。
去年は梅ヶ丘駅南側にある〈テイク・ファイブ〉が会場だった。
今年は北口のほうのレストラン〈GILLIA〉が会場。
私たち現代朗読協会(げろきょ)は、22日(日)の15時と16時の2回、ライブ出演の機会をもらっている。

二日間にわたって地元で開催される梅丘の音楽祭で、1,500円のパスポートでどのライブも見放題。
げろきょは翌日「沈黙の朗読」公演があるので22日しか出られないが、23日も個性的なユニットがあれこれ出ているようで、興味のある方はぜひのぞいてみてほしい。
23日は梅丘から明大前に移動して、「沈黙の朗読」をぜひどうぞ。

出演者と演目紹介(現時点での予定)。
宮本菜穂子。夢野久作の「田舎の事件」からみじかいものを読む予定。
福豆々子。この人は地元民。国木田独歩の「武蔵野」から抜粋して読む予定。
植森ケイ。吉田兼好の「徒然草」から抜粋して読む予定。
山田みぞれ。中谷宇吉郎のエッセイ「イグアノドン」を読む予定。
てんトコロ。中島敦の「かめれおん日記」から抜粋して読む予定。
野々宮卯妙は「日本国憲法」の前文から水城ゆうの「鳥の歌」へとつづけて読む予定。
最後は野々宮による憲法の九条から、全員参加での「祈る人」を現代朗読のフリースタイルで読んで、これでおそらく時間いっぱい。

コミカルなものからシリアスなものまで、音楽ライブのように楽しめる現代朗読ライブを、気軽に観に来てください。
梅ヶ丘THE生エンタの詳細はこちら

法然院ライブ当日パンフ原稿

東日本大震災から二年半、東京にいるとまだまだ震災の余韻や傷跡を色濃く感じることが多い。げんに事故原発は蓋をあけたままであり、放射性物質の問題も看過できない。京都にやってくるとおだやかな空気感にほっとするような気がする。
 私は学生時代をふくめ足かけ八年ばかり京都に住んでいたことがあり、まさに青春の地といっていい。住んでいたのもこの東山界隈を中心にずっと左京区内だった。ここから近くでは岡崎や出町柳、一乗寺にも住んでいたことがある。もちろん法然院界隈で遊んだり、歩きまわったりしたこともある。そんな思い出深い場所に、いま現在おこなっている現代朗読と即興音楽でふたたびつながることができるということに、かぎりない喜びを覚えている。
 今回、京都在住の琵琶奏者・片山旭星さんをお迎えすることができたことも喜びのひとつだ。そもそも、これまで何度も法然院で演奏の機会を持たれている旭星さんがいなければ、この公演も実現しなかっただろう。
 琵琶、現代朗読、そしてシンセサイザーという現代楽器によるセッション。即興性を重視しているユニットが、法然院という空間と、彼岸すぎの夕刻という時間と、おこしいただいたみなさんという関係性のなかで、どのような旅ができるのか。あるいはどのような風景を見ることができるのか。
 そしてどのような祈りをささげることができるのか。
 法然院という祈りの場所において、東北の被災地や、首都圏でおびえと悲しみを抱えて暮らす人々たちにたいし、ひとつの祈りの形として今回の公演をささげたいというのが私の個人的な思いだが、共演のふたりも、そしてみなさんも、たぶんそれを許してくれるのではないかと想像し、演奏をはじめることにする。

台風接近中ですが、ライブの時間には京都方面から遠ざかっているようです。
お近くの方はぜひいらしてください。
法然院ライブの詳細はこちら

作品
「夢十夜 第二夜」夏目漱石
「コップのなかのあなた」水城ゆう
「特殊相対性の女」同

出演
 朗読 野々宮卯妙
 琵琶 片山旭星
 シンセサイザー 水城ゆう

主催
 法然院サンガ
協力
 現代朗読協会

「沈黙の朗読」当日パンフの原稿

音が聞こえ、途切れる。また音がつづいて、ふたたび途切れる。音が聞こえ、そしてまた止まる。
音はリズムを持っている。それは速くなったり遅くなったり、たしかに生命の脈動を感じさせる。
一定のリズムが聞こえたかと思うと、また止まる。耳をすまして待っていると、またちがったリズムで音が聞こえはじめる。
その音はたしかに人の声だ。
どうやら言葉を発しているようだ。言葉を意味を持ち、文章を構成し、さらには物語を形作っているようだ。しかし、言葉が意味を持つ以前に、それは生きている人の身体から生まれた生命の脈動音そのものといっていい。そして音と音のあいだには休止、すなわち沈黙がある。
生命は歩き、走り、そして立ちどまる。じっと身をひそめる。そしてまた動きだす。

朗読という表現行為に接したとき、たいていの人はまずその意味を聞きとり、文章を頭のなかで再構成し、物語を理解しようとする。
声が音であり、リズムであり、生命現象の表現であることをそのまま受け取ってもらうことは、なかなかむずかしい。
ならば、意味を分断し、理解をわざと邪魔してみるとなにが起こるだろうか。
現代朗読ではさまざまなアプローチで、意味ではなく、朗読者の生命現象そのものを受け取ってもらう工夫を重ねているが、「沈黙の朗読」もそのひとつだ。
朗読にはかならず「沈黙」が存在する。言葉と言葉のあいだには、音楽でいうところの「休符」、音のない時間が存在する。その部分にスポットをあててみるとどうなるだろうか、という発想で2010年にスタートしたのが、沈黙の朗読のシリーズだ。

今回、沈黙の朗読の最初の作品である「記憶が光速を超えるとき」の初演朗読者であった榊原忠美を迎え、再演というよりあらたな構成でお届けすることになった。
「記憶が……」は何度か榊原と上演を重ねてきたが、その間にも現代朗読の野々宮卯妙と「槐多朗読」「特殊相対性の女」などの試みをつづけてきた。その集大成ともいえる今回の「沈黙の朗読」公演である。
「記憶が光速を超えるとき」の榊原忠美に野々宮卯妙がからみ、「特殊相対性の女」の野々宮卯妙に現代朗読の面々がからむという、多層構造になっている。
たった一回きりの公演だが、お楽しみいただければ幸いである。

沈黙の朗読

「記憶が光速を超えるとき」
 作・演出:水城ゆう
 朗読:榊原忠美、野々宮卯妙

「特殊相対性の女」
 作・演出:水城ゆう
 朗読:野々宮卯妙
 群読:山田みぞれ、高崎梓、KAT、唐ひづる、町村千絵

 演奏:水城ゆう
 音響・照明:早川誠司(キッド・アイラック・アート・ホール)

 主催:現代朗読協会
 協力:キッド・アイラック・アート・ホール

詳細とご予約はこちら

沈黙の朗読のあゆみ

◆2010年3月
ライブスペース中野plan-Bにて「沈黙の朗読――記憶が光速を超えるとき」を上演。朗読は榊原忠美と菊地裕貴、演奏・水城ゆう。
◆2010年6月
名古屋市千種文化小劇場にて、朗読・榊原忠美、演奏・水城ゆうと坂野嘉彦で「初恋」を上演。
◆2010年9月
下北沢〈Com.Cafe 音倉〉にて、朗読・野々宮卯妙、演技・石村みか、演奏・水城ゆうで「特殊相対性の女」を上演。
◆2010年12月
愛知県芸術劇場小ホールにて、朗読・榊原忠美、演奏・水城ゆうと坂野嘉彦で「記憶が高速を超えるとき」を、朗読・野々宮卯妙、演技・石村みか、演奏・水城ゆうで「特殊相対性の女」を 上演。
◆2011年10月
名古屋〈あうん〉にて朗読・榊原忠美、演奏・水城ゆうと坂野嘉彦で「記憶が高速を超えるとき」を上演。
◆2011年12月
明大前ブックカフェ〈槐多〉にて、朗読・野々宮卯妙、演奏・水城ゆうで沈黙の朗読「槐多朗読」を上演。以後、現在までに全七回の上演回数を持つ。
◆2013年2月
明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉にて、朗読・野々宮卯妙、ダンス・金宜伸、演奏・水城ゆうで沈黙の朗読「初恋」を上演。

法然院ライブが近づいてきた

あと一週間、来週の月曜日は京都の法然院でライブをおこなう。
現代朗読の野々宮卯妙に、京都在住の琵琶奏者・片山旭星さんと私がシンセサイザーでからむ。
演目は「特殊相対性の女」の予定。
これはその翌週の明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉での「沈黙の朗読」でも、これは群読をからめた別の形で上演することになっている。

法然院では時々魅力的なイベントがおこなわれていて、参加してみたいと思っていたのだが、まさか自分たちが出演できるようになるとは思わなかった。
片山さんに紹介していただいて、法然院まで挨拶にうかがったところ、このライブの話がとんとんと決まってしまったのだ。

片山さんとはこれもまたおもしろいご縁である。
野々宮の妹の友人で、いまはげろきょの料理人として時々腕をふるってくれているマリコが、高校生のときから片山旭星さんの追っかけをしていて、東京にも自分の主催で呼びたいということを五年くらい前にいいだした。
豪徳寺の音楽スタジオを活動拠点にしていたので、マリコの計画にげろきょも協力することになり、片山旭星さんを京都からお呼びしたのが最初だ。
それ以来、何度かおいでいただいている。
昨年の秋にも琵琶演奏会を羽根木の家で開催し、終演後の飲み会では楽しい宴会芸を披露してもらったりした。

今回は法然院の方丈の間で、秋の庭をながめながら、暮れゆく日本庭園と寺院建築の光のなかで、朗読と琵琶演奏とシンセサイザーが織りなす音の世界を楽しんでいただこうという趣向だ。
お近くの方、お時間とご都合が許す方は、どうぞゆるりとお越しください。
詳細はこちら

ゼミゼミゼミ

ミンミンゼミの鳴き声がやかましくてお互いの声も聞き取れないほどの晩夏の羽根木の家で、昨日は丸一日、現代朗読ゼミだった。
早朝、未明から雷と豪雨で開催があやぶまれたが、午前9時をすぎると雷雨はおさまり、晴れ間すらのぞく天候に回復してきた。
しかし、やはり交通の心配があったためか、出席予定の何人かが欠席したり、午後に変更したりと、結局朝ゼミにやってきたのはたどるさんひとり。
なんと自転車に乗って涼しい顔でやってきた。
たくましい。

ひとりだったのでゆっくり話を聞くことができた。
げろきょのゼミ生はそれぞれさまざまなニーズがあり、また立場も違うし、朗読表現にたいする気持ちの温度差もある。
ライブを積極的にやりたい人もいるし、ただげろきょに時々参加できるだけで場の安心があるという人もいる。
こういった人のニーズをすべて大切にしたいと私は思っている。

よく、すべての人のニーズを満たすなんて不可能、という発言があるけれど、私はそんなことはないと思っている。
共感的コミュニケーションを用いればそれは可能になる。
なにも精神論を書いているのではない。
コミュニケーションスキルの問題だ。

午後の昼ゼミは4人参加の予定が、ひとり欠席して3人に。
これもまたのんびりやる。

夜ゼミはハングアウトでのネット参加も含めて8人とちょっとにぎやか。
こういうのももちろん楽しい。
本当にさまざまなニーズと個性がある。
しかし、このところの私の方法論は一貫してきているので、どんなケースでもどんと来いという気分だ。
それにしても、すこし学びが進んだゼミ生たちは、ある程度の成功体験をなぞろうとして「たくらみ」がつい表面化してしまい、それが新鮮な表現の驚きにつながらないことが増えてくるので、初心である体認とマインドフルネスにいつも立ちかえるためのエチュードをしっかりやってもらう必要があるかもしれない。
リアルタイム表現はいつもこの瞬間瞬間にあたらしい自分に立ち会える驚きがあることを忘れないようにしたい。
慣れが一番つまらない。

現代朗読協会では現代朗読に興味がある方のために体験講座や基礎コースを用意しているが、スケジュールが合わない方にはゼミの無料見学をいつでも歓迎している。
ご一報の上、見学に来てみてほしい。
見学の申しこみは現代朗読協会事務局「info@roudoku.org」まで。

表現と生きることの自由を得るために「基礎コース」全10回

このところ立てつづけに講座・ワークショップがあり、いろいろな方が私のところにやってきた。
現代朗読の体験講座、音読療法の資格取得講座、共感的コミュニケーションの勉強会やワークショップ、オーディオブックリーダーの講座や個人セッション、演劇と朗読の合同ワークショップなどなど。
いろいろな人がさまざまなニーズを持ってやってくる。
ほとんどが学びのニーズを持ってやってくるのだが、それにこたえるのが私の仕事であり、また喜びでもある。

一見バラバラな内容の講座やワークショップのように見えるが、私のなかではこれらは首尾一貫している。
とくに最近はその一貫性がさらに整い、整理され、迷いがなくなってきている。
すべての講座において力強い確信をもって伝え、学んでもらえているのではないかと感じている。

これらの講座を貫いているのは、「共感」「呼吸・声・身体」「マインドフルネス」というキーワードだ。
自分が自分だと思いこんでいる自我がしがみついている浅はかな企みを捨て、より深い自分自身の自然なありようにすべてを任せていく。
それがすばらしい表現を生みだす。
自分がこうしたい、ああしたいと思っているその欲望は、自分の外側からあたえられ植えつけられたものであることに気づくこと。
そしてすばやくみずからの身体にアクセスし、表現することすべてに全身の細胞で参加してもらうことを妨げないようにする。

現代朗読の方法も日進月歩で進化・深化してきたが、まだまだざっくりしたところがあった。
しかしそれがいま、とても精密な体系になりつつあると感じる。
これを身につけるのは簡単なことではないが、もし身につけられたとき、広々とした自由を見ることになるだろう。
表現の自由とは、生きることの自由と自立・自律を得ることでもある。

今回、それらの方法を体系的に教えるためのカリキュラムを、ある程度整備したいという思いが生まれた。
そこで、これまでにはない全10回という長時間のコースで現代朗読を学んでいただく(私にすればお伝えする)カリキュラムを用意することにした。
それが「現代朗読基礎コース全10回」である。
9月28日スタート、興味のある方はぜひ参加していただきたい。
詳細はこちら

サラヴァ東京のオープンマイクイベント、再び

昨日の夜はゼミ生の山田みぞれが出るというので、サラヴァ東京のオープンマイクイベント「ショーケース」にみぞれちゃんのピアノサポートで行ってきた。
先月につづいて2度めとなる。
ところが昨日は、エントリー6組のうち3組がドタキャンしたということで、私も急きょ、みぞれちゃんのサポートとは別にソロピアノ演奏で参加することになった。
お客として遠方はるばる、ゼミ生のアズーが駆けつけてくれた。ありがとう。

午後8時、イベントスタート。
司会が今回から交代するということで、ユニークな爆笑トーク炸裂の男女ペア。
最初にこれまでの司会者だった人とシャンソン歌手の人がそれぞれシャンソンを歌う。
つづいて、オープンマイクにエントリーした人の演奏がはじまった。

ハーモニカと歌(ご高齢の方)、ユニークなオリジナルボイスでの弾き語り、パントマイムのような演劇のような反戦メッセージの女性のソロパフォーマンス(最後はヌードでびっくり)。
みぞれちゃんは前半のステージで、私の「Even If You Are My Enemy」をくれた。
私は即興ピアノ演奏で共演。
大変充実したパフォーマンスをやれたように思う。

ゲストの歌などがあって、私は後半のステージで演奏。
唱歌の「我は海の子」を即興演奏からはいって、最後はなんとなくスローな3拍子になって終わり。
司会の男性が私のピアノをとても気にいってくれたようだ。

このイベントは最後に、司会者やゲストが「この日もっとも心を動かしたパフォーマンス」を相談して決め、アンコール演奏をすることになっているのだが、そのアンコールに私が選ばれてびっくりした。
こういうものは事前に耳打ちくらいされて準備をするのかと思っていたが、本当にステージの最後に発表されて、なんの準備もしていなかったのでちょっとあわてた。
結局、オリジナル曲の「ヒガンバナ」を演奏させてもらった。
最後に選ばれたのも、みなさんにしっかりと聴いていただけたのも、うれしかった。
こういう機会を作ってくれたみぞれちゃんには感謝。

扇田拓也氏との合同ワークショップ、終了

昨日はカトリック下北沢教会のアトリエかまぼこ(元米軍かまぼこ兵舎)で、演劇と朗読のワークショップ「物語と自我」を、扇田拓也くんと合同で開催した。
初めての試みだ。

扇田くんは先日、てがみ座「空のハモニカ」の演出で多くの観客を魅了し喝采をあびたばかりの、新進気鋭の舞台演出家であり、みずからも役者として舞台やテレビに出演することもある人だ。
とても緻密で繊細なステージを作る人で、私の現代朗読の演出とは対極にあるといっていい。
まったくちがう手法と感性を持つふたりだが、何年か前から交流があり、今回、ぜひいっしょにワークショップをやってみよう、ということになったのだ。

午前10時スタート。
アトリエかまぼこは古いけれど落ち着いた空間で、定員20人のワークショップにはゆったりとしてちょうどいい感じ。
今回、ちょっとしたサプライズとして、扇田くんのサポートに「空のハモニカ」で金子みすずを主演した石村みかが駆けつけてくれたことがあって、うれしかった。
彼女も真剣に参加してくれ、ほかの参加者たちにもおおいに刺激になったのではないだろうか。

今回使ったのは、扇田くんも私もともに太宰治の「海」という短いテキストであることがあらかじめ決まっていた。
これを使って、まずふつうに輪読。
それから扇田くんがプランを示して、演劇的にこれをステージ表現に作りあげるにはどうしたらいいか、ふたつのグループに分かれてさっそく実践にはいっていった。

午前中はそれぞれのグループが自分たちがアイディアを出しあって、ステージプランを作る。
ランチ休憩をはさんで、午後はいよいよそのプランの実演作り。
演劇の経験者は少数で、「演じる」ということや演劇的な段取り作りの段階でかなり苦労している感じだった。
とはいえ、みんな楽しそう。

ひととおりそれぞれのグループが「海」を劇作品にしあげたところで、今度は私がそれを現代朗読のエチュードとして発展させながら、最終的にステージ表現にするプロセスを提供した。
演劇とはちがって、即興性のなかでひとりひとりの表現を全体融合させていく現代朗読の方法は、じつにシンプル。
ゼミ生が多かったこともあって、あっという間にステージパフォーマンスができあがってしまった。
ものの30分。

最終的にこの現代朗読の方法を、演劇プランと合体させることができるかどうか、いくつか試行錯誤してみたが、これは大変難しかった。
かんがえてみれば、いきなりこのような挑戦的な試みがうまくいくわけはないのだが、それでも可能性の片鱗と、なにより予期しないことが起こり、生まれつつあるという現場の感覚に、私はわくわくしっぱなしだった。
この試みは機会をつかまえてぜひ第2弾をやってみたいものだ。
扇田くんもきっとそう感じてくれているだろう。