脱構築、偶有性の受容で生きた自分を表現する

朗読でも音楽でも表現の世界で即興ができない、という人がいる。
なにか決まっていないとなにもできない、という人がいる。
これからなにが起こるか予測できない局面がとてもこわい、という人がいる。
私ももちろんそういう心理があるし、そのこと自体は理解できる。
人は予測できないことが苦手だし、予定されたことが予定どおり進まないことに怒りや怖れを抱くことがある。
安全や安心のニーズがあって、ものごとが予定どおり進むことを望むのだが、実際にはそううまくいかない。
明日がかならず来るとは限らないのだ。

表現の場でもそういう心理が働いている。
朗読表現の場合、朗読に使うテキストにびっしり書きこみをして、自分がどこでどのような読み方をするのかあらかじめ全部決めておいて、それを何度も練習して本番の公演やライブに望まないと不安だという人がいる。
予定外のことがなるべく起こらないように、表現を「構築」しておくのだ。
そのことが生きたその人を表現することを著しく阻害していく。

生活の場でもそうだが、表現の場でも次の瞬間、なにが起こるかわからない、予測がつかない、というのが真実だ。
自分の外側でなにかが起こるかもしれないし、自分のなかでもなにが起こるかわからない。
調子よく朗読していても、開演に遅れた人が騒々しく席についたり、だれかの咳が止まらなかったり、会場の外を救急車がサイレンをならして通りすぎたり、共演者がきっかけをまちがえたり、じつにさまざまな「予測のできないこと」が起こる。
それをなにごともなかったかのように無視して、練習で構築してきたとおりの表現を押し通そうとするのは、一種の「嘘」を通すことになる。

自分の内側でもさまざまなことが起こっている。
練習のときとはちがった体調であったり、感情がうずまいたり、反応が起こったり。
これもまた無視してなかったこととして押し通そうとするのは、虚偽の表現といっていい。

現代朗読ではこういった「偶有性」を前提として受容し、思いきってたくらみを捨てて偶有性の世界に踏みだすことを練習する。
構築されたものを脱し、自分自身と自分のまわりに起こることを受け入れて、正直に反応しながら表現することを練習する。
たくらみを捨ててみるとわかるが、とたんに手掛かりが少なく頼りなくなって不安を感じるだろう。
しかし、そこを勇気をもって踏みだしてみる。
そうしてみると、偶有性という広大な未知の世界が自分の前にひろがっていることに気づくだろう。

※以上のようなことを、先日おこなった「現代朗読基礎コース 第7回」のなかでレクチャーしている様子を抜粋してYouTube番組「あいぶんこ朗読ポッド」で配信中。そちらも合わせてご覧いただきたい。
※現代朗読基礎コースの次期スタートは2014年1月18日(土)です。詳細とお申し込みはこちら

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