楽しい「修行」としての現代朗読

投稿日: カテゴリー: ボス通信, 現代朗読考

「修行」といっても宗教的なものではありません。
生活の質を向上させたいと思うとき、私たちはさまざまな練習をしたり、稽古に通ったり、訓練したりします。
これらを総称して「修行」といっておくことにします。
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私はいま、自分の「修行」のひとつとして、韓氏意拳という武術を稽古しています。
けっこうマニアックで、あまり知られておらず、習う人もまだまだ少ない武術ですが、自分の必要で毎月何度か稽古に通っていますし、自宅でも自主的に稽古しています。
また古民家の「羽根木の家」という活動拠点があるので、指導者を招いてそこでも毎月一日、講習会を開いています。

私のようなピアニスト・文筆家にとって、武術になんの必要性があるのか、と思われるかもしれませんが、いまや韓氏意拳の稽古をしないと「困る」というほど私にとって重要性を持っています。

一般的な武術は、中国拳法にしても空手にしても、剣道にしてもボクシングにしても、「型」や「所作」「やり方」「パターン」などを身につけると同時に、それらに必要な筋力やスピードを鍛える、という方法をとります。
しかし、韓氏意拳はそういう方法をとりません(まったくとらないわけではありませんが)。
韓氏意拳でもっとも重要なことは、自然本有の自分の身体の声に耳をかたむけるということで、たとえばある危機が迫ったときに自分の身体がそれにたいしてどのような「現れ方」をするのか、ということを見ます。
部分的に力を使ったり、型ややり方を用いたり、ということはしません。

ひとことで説明するのは難しいんですが、ようするに稽古でおこなうのは、徹頭徹尾、集注して自分の身体の声に耳を傾け、自分の体層の深くへと進入していく、ということです。
極度に集注したマインドフルネスの状態であり、言語思考を手放すという意味において一種の瞑想といってもいいかもしれません。

この稽古が、ピアノ演奏や朗読演出、そして文章書きにとても大きな(よい)影響をあたえてくれるのです。
仕事だけでなく、日常生活でも、料理したり掃除したり、歩いたり電車に乗ったり、といった場面でもよい影響があります。
おそらく、健康面でもよい影響があるでしょう。
韓氏意拳には「養生功」というものもありますし、中国では太極拳でわかるように、拳法を健康法のひとつとして用いるという流れがもともとありますね。

私の場合、自分の仕事や生活に影響をあたえる「修行」として韓氏意拳を用いているわけですが、韓氏意拳でなくてもいいと思います。
人はそれぞれ自分にあった修行法を見つければいいのです。
ピアノを弾くことが修行法だという人もいるでしょう。
あるいは読書だったり、呼吸法だったり、スケッチだったり、散歩だったり、ラジオ体操だったり、ヨガだったり、自転車だったり、テニスや水泳だったり、修行だとは思わなくても多くの人が自分の生活の質を向上させるためにいろいろなことに取りくんでいると思います。
「現代朗読」もそのようなことのひとつとしてありうるな、と最近思っています。

人はことばで高度なコミュニケーションをおこなう唯一の生き物です。
人にとってことばや声というのはとても重要かつ特別なものです。
赤ちゃんを見ていると、おかあさんがなにか話しかけたとき、そのことばの意味はわからないのに、懸命にその声に耳を傾けようとします。
自分のおかあさんの声を聞き、味わい、識別し、そこにふくまれる情報を受け取る練習をしているんですね。

そのように絶え間ない訓練を経て成長した我々は、人の声にたいして繊細な感受性を持っています。
だれかがなにかを話したとき、そのことばがしめす情報のみならず、声にふくまれる情報をも受け取り、無意識に分析しています。
だれかから「おはよう」と挨拶されたとき、その相手が機嫌がいいのか悪いのか、身体の調子がいいのか悪いのか、友好的なのか敵対的なのか、さまざまな情報を受け取って判断しています。

ある人がなにかを読みあげるとき(朗読するときといってもいいです)、その人の注意がただ文章の内容に向けられ、その内容を伝えようと口先だけ動かしているのと、自分の呼吸や姿勢や全体的ありようや、あるいは周囲のようすまで把握して読んでいるのとでは、伝わるものの質がまるでちがいます。
たとえば、自分の呼吸に目を向けてそれを把握しながらだれかと話してみてください。
そこに現れるコミュニケーションの質の違いに気づいてびっくりするかもしれません。

いきいきとしたコミュニケーションや表現行為では、過去を持ちこむこともまたいきいきさを阻害することになります。
練習したとおりに読もう、準備してきたとおりにやろう、あらかじめこういおうと用意してきたことを話す、といったことです。

朗読についていえば、読み方、間の取りかた、トーンの上げ下げ、リズムの変化にいたるまでびっしりとテキストに書きこみをして練習し、本番でもそれをそのとおりに再現しようとする人がいます。
そこにいきいきさはあるでしょうか。

人はたえず変化する動物です。
練習したことをなぞったり、あらかじめ決めたようにおこなおうとするのは、過去を現在に無理やり持ちこむ行為です。
過去の自分といまこの瞬間の自分とはちがいます。
流動的な変化のなかでもなおかつ自分自身の能力を発揮できるように稽古しておきたいのです。

現代朗読では、朗読という行為をとおして自分自身の身体性や感覚の変化を見ていきます。
韓氏意拳で、ある型やおこないをとおして本来の自分の身体を深く見ていくようなものです。
とくに朗読することが目的でない人でも、たとえば朝起きて、なにか読むものを手にとり、現代朗読のトレーニング法をもちいて自分自身の今日の感じ、ありよう、変化を緻密に感受することからスタートしたら、その日の生活の質はちょっとちがったものになるかもしれません。
また、だれかと話すとき、あるいはひと前で話す必要があるとき、現代朗読のトレーニングでつちかった体認やマインドフルネスをこころがけることができたら、コミュニケーションや表現の質はかなり変わってくるかもしれません。

すくなくとも私は、ピアノを演奏したり、ひと前で話したり、だれかと交流したり、といったときに韓氏意拳や現代朗読のトレーニングでつちかった体認・マインドフルネスというスキルが大変役に立っていることを感じるし、さらにそこを深めていきたいと思っています。

座禅やヨガは挫折したけれど、朗読トレーニングならとっつきやすくてつづけられるかもしれない、という人がたくさんいそうですね。

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(主宰 水城ゆう)

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