現代朗読基礎コースが始まった

全10回シリーズの現代朗読基礎コースが、昨日からスタートした。
土曜日の午前10時半から2時間、12月に最終となる約3か月で、現代朗読の基礎を網羅しようというプログラムだ。

初回の昨日は現代朗読と従来朗読の違い、日本における朗読の歴史、表現アートの歴史とコンテンポラリーアートの成立過程、コンテンポラリーアートと伝統的表現の違い、現代朗読がめざすものなどについて、系統的に解説をこころみた。
現代朗読は「放送技術」に辺倒せず、情報伝達ではなく、自分自身を表現し人に伝える手段として朗読行為をとらえている。
そのために表現の原理を朗読行為にあてはめてかんがえ、さらに各自のオリジナリティを保証する手段として身体性にたいする意識を緻密に高めていくことをする。

このために、いろいろなエチュードが用意されている。
エチュードをやりながら、自分の身体と呼吸と声を感受し、それらが連動して働く意識を持つ。
この目的は、表現を「あらかじめ準備され、たくらみや思いこみで作られた」ものではなく、「いまここ」の自分の身体とこころに正直に誠実に沿うことで、まっすぐにオーディエンスにとどきコミュニケートできるものにすることにある。
このことはまた、自分自身に深くアクセスすることでもあり、朗読の練習をする過程で普段の生活も大きく変わったり、日常の風景がちがって見えたりする。

昨日は最初のガイダンスやお互いの紹介、朗読表現の歴史や現代朗読の考え方の確認などに時間がかかったので、エチュードの時間は短めになった。
呼吸法、ハミング発声と身体の震動の確認、体認のエチュードをふたつだけ。
これらはどれも大切な基礎エチュードなので、毎回かならずやることになるだろうし、参加者には家でも毎日やってもらいたいとリクエストしておいた。

基礎コースは10回あり、定員にすこし余裕があるので、昨日の初回に参加できなかった人も2回め以降から参加可能です。
初回の記録音声や映像もありますので、どうぞ。
詳細と申し込みはこちら

沈黙の朗読「記憶が光速を超えるとき」抜粋映像

2013年9月23日、明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉で上演された「沈黙の朗読」の2本立て公演のうちの1本「記憶が光速を超えるとき」の抜粋映像です。
朗読出演は榊原忠美と野々宮卯妙。
作・演出・演奏は水城ゆう。
照明、早川誠司(キッド・アイラック・アート・ホール)。
音楽はすべて即興。

沈黙の朗読「記憶が光速を超えるとき」抜粋映像

2013年9月23日、明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉で上演された「沈黙の朗読」の2本立て公演のうちの1本「記憶が光速を超えるとき」の抜粋映像です。
朗読出演は榊原忠美と野々宮卯妙。
作・演出・演奏は水城ゆう。
照明、早川誠司(キッド・アイラック・アート・ホール)。
音楽はすべて即興。

現代朗読基礎コース、9月スタート

(全10回の「現代朗読基礎コース」は2回目以降からの参加も受け付けています。初回の記録映像・音声をお渡ししますので、途中参加もご安心を)

従来の朗読とはまったく異なったアプローチで驚きを呼んでいる「現代朗読」の考え方と方法を、全10回で基礎からじっくりと学ぶためのコースです。
体験ワークショップからさらに踏み込み、現代朗読の全体像を俯瞰しながら、具体的なプラクティスを多くおこないます。

現代朗読とは、技術や決まり事によってなにか決まった型のようなものを作りあげていくのではなく、意識的にせよ無意識的にせよ「ついやってしまっていること」を自覚し「やめていく」ことによって、本当の自分の表現を再発見していく方法です。
また、朗読とは「作者の代弁者」になることではなく、あるテキストを使って「自分自身を表現する」ことである、という考え方をとっています。

現代朗読を学びに来た皆さんが一様に口にすることばは「目からウロコ」です。
まずはやってみてください。自分が知らなかった自分自身を発見できるでしょう。
同時に朗読という表現行為の奥深さに驚くことでしょう。

つぎのような方におすすめです。
・まったく朗読をやったことはないが、これからなにか表現してみたいと思っている。
・朗読はある程度やったことはあるが、なんとなく物足りなさや違和感を覚えている。
・朗読活動をやっているが、いまいち壁を打ち破れなく困っている。

◎今期全10回のスケジュール
(最初に発表していた日程がすこしずれました。ご注意ください)
 2013年9月28日、10月5日、12日、19日、26日
 11月9日、23日
 12月7日、14日、21日
 いずれも土曜日午前10時半から12時半の2時間

「目からウロコ」の現代朗読の考え方&方法を、教材を用いながら基礎からじっくり学べます。
教材「音読・群読エチュード」(ラピュータ刊/1,890円)

※詳細とお申し込みはこちらから。

全10回の内容

基礎コースでは全教程を座学と実技(エチュード)の組み合わせで進めていきます。
動ける軽装でご参加ください。

(1) 朗読という表現行為/表現とはなにか/自分自身を表現するということ
(2) ことば・声/呼吸/姿勢/身体/日常トレーニング
(3) 朗読テキストへのアプローチ/読解力とはなにか
(4) 日本語発音の決まりごと/表現での決まりごとの扱いかた
(5) リズム感/音程感/朗読と音楽/セッション朗読
(6) 演じるのか?/セリフの扱い/朗読と演劇
(7) スリリングな表現者になるための自分自身の理解/表現心理
(8) 群読の楽しみ/エチュードから作品へ
(9) 伝達と表現/伝統的表現/コンテンポラリー表現
(10)唯一無二の表現者になる/朗読者という職業

受講料 45,000円(教材費含む)
定員  10人(定員になりしだい締め切ります)

表現のクオリティを左右するもの

明日から現代朗読基礎コースがスタートする。
現代朗読という表現方法へのアプローチがギュッと凝縮され、そして表現力を大きく飛躍させるための訓練カリキュラムがギュッとつまったプログラムを用意している。

朗読というと、日本語の発音発声のルールを練習したり、難解な文学作品の読解方法をたたきこまれたり、それにそった厳密なリズムや音程、間合い、呼吸などのコントロールをやらなければならなかったり、といった、とにかく「むずかしい」「とっつきにくい」というイメージを持ってしまっている人が多い。
本来、朗読表現というのは、そこに書いてある文字を読みあげるだけの、だれにでもできるものであるはずだ。
そして実際、現代朗読にはまったく初心者がやってきて、のびのびイキイキと表現を楽しんでいる。

アプローチがちがうのだ。
表現のクオリティを左右するのは、ルールや技術をおぼえることではない。
決まりきった型や、だれかうまい読み手の読み方をなぞることでもない。
自分自身のオリジナリティにもとづいて、いまこの瞬間の自分自身の生命力を最大限に発露することができるかどうかにかかっている。
そのためにもっとも重要なのは、思いこみを捨てて自分の身体に向き合う、ということだ。

朗読はとても敷居が低く、だれにでも取りくめる表現だ。
しかし、その奥行きはとても深い。
初心者は初心者なりにおもしろい表現が可能だし、経験者はさらなる奥行きをめざすことができる。
いずれにしても、向かい合うのは自分自身の身体。
身体というのは、精神や感受性もふくまれている。

現代人はなにかをするときに、自分の身体を意識するということがとても苦手になってしまっている。
朗読という行為は、自分の声と呼吸を用いるものだが、それが自分の身体からもたらされるということを忘れがちになる。
そのことをしっかりと思いだし、身体性を意識し、声と呼吸と全身のはたらきを密にしていくことで生命の輝きそのものを表現する、それが現代朗読のめざすところだ。

明日から基礎コースがスタートするが、定員に多少余裕があるので、明日は来れないという人も次回以降の合流参加も可能です。
詳細はこちら

特別なことをやっているつもりはないが、現代朗読は

このところ体験講座や個人セッションなどでやってきた何人かから立て続けに、
「朗読ってむずかしい」
という固定観念を持ってしまっているという話を聞いた。
なぜむずかしいという思いこみを持ってしまったのか、よく聞いてみると、
「こう読まなければならない、こう読んではいけない、アクセント、滑舌、日本語の正しい発音などおぼえなきゃならないことが多い」
といった理由で、むずかしいと思いこんでいるようだった。

その方たちは養成所や朗読教室で朗読を習ったことがあるのだが、なにか読むたびに、
「そうではなくて、こう」
「それはだめ」
「こう読まねば」
といった指導をこまかく受けて、朗読はむずかしくて面倒なものだ、という印象を持ってしまったという。
なかには朗読をしようとすると緊張のあまり身体がこわばってしまう、という人までいた。
悲しいことだ。

現代朗読においては、「こうしなければならない」とか「こうしてはならない」というものは一切ない。
自分のやりたいようにやることが求められる。

これはしかし、好き放題やることとは違う。
自分がどうしたがっているのか、自分の身体がどう動きたがっているのか、いまこの瞬間自分はどのように読みたがっているのか、身体の声に耳をすまし、自分自身の深い部分から出てくるものにたいして誠実に、正直に、そして緻密に反応していく。
これはそう簡単なことではない。
しかし、むずかしい、という言葉とはちがう。
私たちは普段、たえず自分自身の身体の声を聞いているのだが、無意識にそれを押さえつけ、ねじまげる癖を身につけてしまっている。
そのことに気がつき、ただやめるだけだ。
自分自身を疎外している意図的な企みを捨てる。

そのように自分に正直になっていけたとき、そこには大きな自由と喜びがある。
朗読ってこんなに楽しい! と気づいてとたんに活気づいてくる。
こういうことは朗読にかぎらず、人の生きることのすべての基本であり、特別なことではないと私は思っているのだが、ちがうだろうか。
現代朗読以外の、従来の朗読のほうが、よほど特殊なことを強いているような気がしてならない。

現代朗読を気軽に体験できる体験講座の次回開催は10月5日(土)午後。
詳細と申し込みはこちら

沈黙の朗読「特殊相対性の女」抜粋映像

2013年9月23日、明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉で上演された「沈黙の朗読」の2本立て公演のうちの1本「特殊相対性の女」の抜粋映像です。
出演は野々宮卯妙の朗読と、群読が唐ひづる、KAT、山田みぞれ、高崎梓、町村千絵。
作・演出・演奏は水城ゆう。
音楽はすべて即興。

沈黙の朗読「特殊相対性の女」抜粋映像

2013年9月23日、明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉で上演された「沈黙の朗読」の2本立て公演のうちの1本「特殊相対性の女」の抜粋映像です。
出演は野々宮卯妙の朗読と、群読が唐ひづる、KAT、山田みぞれ、高崎梓、町村千絵。
作・演出・演奏は水城ゆう。
音楽はすべて即興。

読むとき噛んでしまうことについて(2)

以下、「噛まない名人」の野々宮卯妙(たまには噛むけど)に確認しながら、噛まないための訓練についてまとめてみた。

「噛む」あるいは「読み間違える」ということが起こるとき、たいてい読み手は文章や言葉の「意味」にとらわれ、思いこみをしている。
「走ってる」と書かれているのに「走っている」と書いてあると思いこんでいて、その読もうとして、読む瞬間に読みまちがいに気づくのだが、訂正が間に合わず、噛んでしまう、というようなことが起こる。
あるいは間違っていることにすら気づかず、思いこみのまま読みすすめてしまう、ということもある。

人は「意味の動物」なので、文字面だけを正確に読みとろうとしても、意味にとらわれてまちがえてしまう。
読み間違えない訓練方法としては、意味にとらわれず文字面を正確に読みとる練習をすればいい。

野々宮がやっているのは、文章を逆から読む、というものだ。
「我が輩は猫である」を逆から読むと「るあで猫は輩が我」となる。
まったく意味をなさなくなる。
意味をなさない文章を、それでも正確に読みあげる練習をする。
意味ではなく、文字記号としての注意深さを養うのだ。

噛んだり読み間違えたりするのは、結局のところ集中力に欠如や不注意から起こる。
意味にとらわれてこう書かれているはずだ、と注意をおこたって読んでしまうのは、ようするに自分が読むという行為に効率を持ちこみ、楽をしようとしているからだ。
私たちは資本主義社会・効率主義社会で教育を受け、育ち、生活しているために、骨の髄までものごとを効率よく処理して自分は楽をしよう、という態度がしみついている。
そのことを朗読という表現行為に持ちこまないようにしたい。
表現が効率で支配されることほど貧しいことはない。
自分がなにをしようとしてしまっているのかに気づき、襟をただし、高度な集中と注意を向けて目の前のテキストに対峙する。
その姿勢を持つだけで、噛んだり読み間違えたりすることは格段に少なくなるだろう。

梅ヶ丘THE生エンタから沈黙の朗読へ

昨日は街の音楽祭〈梅ヶ丘THE生エンタ〉に出演してきた。
梅ヶ丘北口にあるレストラン〈GILLIA〉が会場。
去年オープンしたという新しい店で、私が梅丘に住んでいたころにはなかった。
こじんまりしたアットホームな店で、近いうちにイベントとは関係なしに行ってみよう。

午後2時すぎにげろきょメンバーと梅ヶ丘駅で待ち合わせて店に行くと、生エンタ主催者の真藤さんとスタッフの人たちが音響のセッティングをされていた。
かなり古いKORGの電子ピアノが持ちこまれている。
あまり弾き良いとはいえないが、自分で楽器をかつぎこまなくてすむのは助かる。

午後3時からファーストステージだが、お客さんが来ない。
ピアノを弾きながら朗読と遊んでいると、お客さんが来たので、そのまま野々宮とセッションをはじめる。
そしてそのままファーストステージ。

今回のセットリストはつぎのとおり。

1. 宮本菜穂子。夢野久作「田舎の事件」
2. 福豆々子。国木田独歩「武蔵野」から
3. 植森ケイ。吉田兼好「徒然草」から
4. 山田みぞれ。中谷宇吉郎「イグアノドン」
5. てんトコロ。中島敦「かめれおん日記」から
6. 野々宮卯妙。「日本国憲法」前文〜水城ゆう「鳥の歌」
7. 憲法九条〜全員参加「祈る人」

まあみんな自由すぎる(笑)。
私もびっくりするほど自由奔放だったり、しっとりだったり、深みがあったりと、お客さんが少なかったけれど、げろきょゼミ生の実力を存分に味わうことができた。
これからどのように深化していくのか、楽しみだ。

そして今日は「沈黙の朗読」の2本立て。
連休の最終日のせいか、これもまたお客さんが少ない。
赤字はやむをえないが、名古屋から昨夜上京している榊原忠美の「記憶が光速を超えるとき」と、野々宮卯妙とげろきょゼミ生による「特殊相対性の女」のどちらも、非常にスリリングな、現代朗読の、いや朗読表現の最高峰といえるパフォーマンスになること間違いないものを、多くの人にご覧いただけないのはちょっと残念。
ご都合のつく方はぜひ目撃しに来てください。
明大前〈キッド・アイラック・アート・ホール〉にて午後3時からと午後6時から、それぞれの演目が上演される。
詳細はこちら

読むとき噛んでしまうことについて(1)

オーディオブックリーダー養成講座を受講中の方からつぎのような質問が来た。
「意識しすぎるからなのか、まだまだトレーニングが足りないからなのか、その両方なのか、いざ自分で本番と決めて通し読みをすると、どうしても最後まで一度も噛まずに読めたことがありません。今やっている司会の仕事の方も、絶対噛んじゃいけないと意識していればしている時ほど噛んでしまいます。こういうのは、やはり練習なのでしょうか? 実際緊張をすごくするというわけでもないのですが、なかなか上手くいきません。何か対処方があれば知りたいです」

まずいいたいのは、私たちは人間であってロボットではないのだから、かならず間違ったりミスをおかすことがある、ということだ。
朗読にしても司会にしても、「間違ったらどうしよう、噛まないようにしなきゃ」とかんがえながら行なうのと、「間違えることもあるよね、噛むこともあるかもね」と自分がミスすることを受容しながら行なうのとでは、どうちがうだろうか。

いうまでもなく、前者の身体には不要な緊張が生じている。
「噛まないようにしようとすればするほど噛んでしまう」
という現象はそのために起こる、いわば必然といっていい。
後者には不要な緊張はない。
結果的に噛みにくくなる。
自分にミスすることを許せば、ミスは少なくなるのだ。

私たちは「ミスをしないように気をつける」という教育を受けてきた。
それはすべての場面において無効だとはいわないが、そのマインドが人の能力を低下させることがある以上、その考え方を手放すことも必要だ。
「人はミスをするもの。自分もミスをする。そのことを受け入れ、ミスしたときにどのように対処すればいいのか準備しておく」
オーディオブック収録のときに間違えたら、とめてとりなおせばいいのだ。
司会のときも間違えたら、そのことをごまかさず、とりつくろわず、正直にふるまえばいい。
正直な人を相手にするとき、たいていの人は相手を受け入れるものだ。

もっとも、噛まない、読み違いをしないための技術訓練方法がないわけではない。
それについては項をあらためる。

9月の現代朗読体験講座のお知らせ(9月21日)

現代朗読協会の朗読体験講座、2013年9月のお知らせです。
まったく朗読をやったことがない/ちょっとやってみたいと思っている人や、すでに経験はあるけれど朗読表現に行き詰まりを感じているような方のためにおこなう、ワークショップ形式の体験講座です。

◎日時 2013年9月21日(土)14:00〜17:00
◎場所 現代朗読協会・羽根木の家(京王井の頭線新代田駅徒歩2分)
◎参加費 2,000円

※詳細とお申し込みはこちらから。
⇒ https://www.roudoku.org/ws/ws_taiken.html

◎こんなことをやります
現代朗読というあたらしい表現を理解するために、実際に身体を動かしたり声を出したりして体験していただきます。
毎回、下のようなプログラムからいくつかをピックアップしてご紹介する予定です。

・朗読のための声と身体の準備。
・朗読するときに起こっているさまざまなことの理解。
・朗読のためのテキストの扱い方、読み方と、朗読実践。
・柔軟でとらわれない表現をおこなうためのヒント。

現代音楽と現代朗読の怪しい夜@中野〈Sweet Rain〉のお知らせ

中野のジャズライブバー〈Sweet Rain〉で現代音楽の作曲家、演奏家たちと、現代朗読パフォーマー野々宮卯妙および水城ゆうが出会う、スリリングな企画ライブをおこないます。

◎日時 2013年10月16日(水)20:00スタート
◎場所 中野〈Sweet Rain〉
◎料金 2,500円(飲食代別)

 予約先:Sweet Rain(03-6454-0817)または現代朗読協会

◎コーディネート 中村和枝
◎出演
 野々宮卯妙(現代朗読)
 村田厚生(トロンボーンほか)
 石塚潤一(ピアノほか)
 木下正道(作曲ほか)
 水城ゆう(ピアノ、作曲、テキスト)

この企画は現代朗読と交流があった現代音楽のピアニスト・中村和枝さんを軸に、おたがいの接点でなにかおもしろいことができないか、ということで決まりました。
今回、残念ながら中村さんは演奏には参加されませんが(ご自身のコンサートを控えているため)、音楽と朗読のコンテンポラリーの世界が初めて交点を結ぶスリリングな内容となるでしょう。
ここからなにが生まれるのか、だれも聴いたことのない音の世界をご期待ください。

自分の音楽、音を楽しむ

現代朗読協会を主宰している私自身は朗読しないのだが、公演やライブのときには音楽演奏で共演することが多い。
たいていはピアノを弾いたりシンセサイザー/キーボードを弾いたりする。
ピアノがなかったり、大型楽器を持ちこめなかったり、電源がなかったりするときは、鍵盤ハーモニカを吹くこともある。
いずれにしても、即興演奏で朗読と共演する。

演奏家が朗読といっしょにやるというと、ほとんどの場合「伴奏」になってしまうものだが、私は伴奏はしない。
あくまで共演者として朗読者と対等に音でコミュニケートする。
したがって、本番になるまでなにが起こるか、どんな音になるのか、まったく予想できない。

朗読と共演したあと、お客さんから訊かれて「全部即興ですよ」と答えると驚かれることが多い。
しかし事実なのだ。
楽譜に書いてあるメロディはひとつもないし、用意されたフレーズもない。
朗読者の発する声、そのリズム、音色、ときには言葉、そして観客、ライブ空間、外部から侵入してくる音、私自身の身体のなかで起こっている事件、そういったことに反応し、その場で音ができていく。

私の音はほとんどコントロールされていない。
自分の身体が「こう行きたい」という道すじをしめし、私はただその上をたどっていくだけだ。
その散歩(ときには駆け足であったり疾走であったりもする)はこの上なく楽しく、生きていることそのものであり、私がたどっている音の道すじは私の生命の発露そのものであるといっていい。

通常、音楽を学ぶ/練習するというと、ある一定の型をなぞり、繰り返し繰り返しそれを練習し、型とおりの音が出せるように反復訓練することを指す。
その方法はすでに19世紀以前のものであり、現代における音楽演奏の習得にはまったく別の方法があると私はかんがえている。
それは自分の音をさがし、自分のスタイルで演奏し、自分の生命力そのものを発露するための表現を鍛える方法だ。
従来の音楽教室や個人レッスンでおこなっている習得方法では、自分らしい、自由で豊かな生命力に満ちた演奏を身につけることはできない。

明日22日(日)は「梅ヶ丘THE生エンタ」で、明後日23日(月/秋分の日)は「沈黙の朗読」2本立て公演で、それぞれ朗読と共演することになっている。
自分のなかからどんな音が出てくるのか、共演者たちとどんな音空間を作れるのか、観客とどのようなものを共有できるのか、たぶん生まれるであろう豊かな空間と時間の体験を想像して、いまから楽しみでしかたがない。

全身が読むことに恊働したとき朗読表現は飛躍する

人が生きて表現することのクオリティを保証するものはなんだろう。
たとえば私たちだれもがやっている「歩く」という行為。

私たちはぶらぶら歩いたり、あるいはどこかに行くために急いで歩いたりするとき、その全身運動にたいしてほとんど意識していない。
なにかかんがえごとをしていたり、スマホをいじっていたり、きょろきょろしていたり、その間、自分の身体があることをすっかり忘れている。

それでもちゃんと歩けるのだから、身体はえらい。
運動機能をつかさどっている小脳や神経組織が、複雑なコントロールと情報収集、情報交換をすばやく、超並行処理でおこなってくれているおかげだ。
大脳はほとんどそのことを意識せずにほかのことをしていられる。
しかし、いったん「歩く」ということを意識したとき、人はどうなるだろうか。

よほど訓練された人でなければ、歩くことを意識し、意識的に歩こうとした瞬間、とたんにぎくしゃくと不自然な動きになるだろう。
たとえばあなたが大勢の観客のいるステージの上にあがって、ステージの端から端まで歩いてみせる、ということを想像してみたらいい。
ほとんどどうやって歩いていいかわからないくらい、ぎこちない運動になるだろう。
しかし、役者やダンサーやステージ慣れしている人は、ふだんのように、あるいは「歩くことを見せるための表現のクオリティとして」歩くことができる。
これはどうやっているのだろう。

いうまでもなく、歩くという運動にたいしてすみずみまで意識が行きとどき、自分がなにをどうやっているのかきちんと体認できているから、そうできるのだ。
しかし、それをコントロールしようという大脳皮質の傲慢さを許さないほうがいい。
それについては長くなるのでここでは書かないが、とにかく自分の身体がおこなっていることをただ見る、知る、意識する、任せる、邪魔しない、ということができるかどうかが問題だ。

朗読もそうだ。
朗読という表現行為はことばを発する。
口まわりや口中の筋肉・神経を精妙に使い、複雑な発音をしている。
どうじに声帯をふるわせ、呼吸を使い、姿勢も変化している。
そのような複雑で精妙な「運動」について、朗読者がどこまで体認できているか。
さらにいえば、読むという朗読行為に全身くまなく協力して参加し、最高のクオリティを発揮することにたいして、自分自身が邪魔をし損なっていないか。

自分の全体を緻密に体認し、声を発する、ものを読むという行為に全身を恊働させられるかどうか。
ここへの意識と方法を練っていくことで、朗読表現のクオリティは飛躍的に高まっていくことがわかっている。
この方法を伝える現代朗読の体験講座が、明日9月21日(土)14時から開催される。
興味があるかたはこちらからどうぞ。